こどもの日と聞くと、「鯉のぼり」を連想する方が多いかと思います。
でも、端午の節句と言われたら、「五月人形」や「鎧・兜」が浮かんだりしませんか?
どちらも同じ日を指しているはずなのに、呼び方一つで連想する飾りが違ってくる。
なんだか不思議な気がします。
さて、現代の住宅事情から鑑みると・・・
鯉のぼりをあげる事は出来ないけれど、室内に五月人形や鎧・兜は飾ることが出来る。
そのようなご家庭も多いかと思います。
ところで、鯉のぼりをあげる事もそうですが、端午の節句(こどもの日)だからという理由だけで、五月人形や鎧・兜を飾ってはいませんか?
鯉のぼりや鎧・兜、五月人形は、それぞれに意味があります。
鯉のぼりの由来や意味については、こちらの記事をご覧戴くことにして・・・
ここでは、五月人形や鎧・兜について、その由来や意味をお届けいたします。
五月人形や鎧・兜の由来
端午の節句(こどもの日)に五月人形や鎧・兜を飾るという風習は、元をたどると、武家社会の風習に行き当たります。
武家社会の風習
時は、室町時代末期に遡ります。
この頃の端午の節句には、虫干しを兼ねて旗指物を飾るという風習がありました。
やがて、鎌倉時代になると武家社会が成立します。
それ以降、端午の節句は、男の子が武士として強くたくましく成長することを祈るという色がどんどん濃くなります。
すると、家の外には旗幟や吹流しを立て、座敷には鎧や兜、武具を飾るようになっていきました。
※旗幟=旗とのぼり。旗印。
また、災いが外から入るのを防ぐために、武具類を外に飾ったという説もあります。
加えて、この時代には、身の安全や志が叶って神社にお参りする際に、鎧や兜を奉納するというしきたりがありました。
このしきたりも、何かしらの関連性があるのではと言われています。
定着したのは江戸時代
武家社会の風習が庶民の間に広がるきっかけは、その「真似」がほとんどです。
端午の節句も類にもれずで、江戸時代の庶民達が、武家社会の風習をまねたことがきっかけです。
当時は、家の前に棚を作り、鎧・兜(作り物)や槍、幟などを飾っていました。
その中でも、鎧飾りの頂には、神様が降りてくる目印として勇ましい人形の細工物を乗せたのです。
後に、鎧飾りから人形が独立して、今の五月人形となったと言われています。
神様の依代としての人形細工と、当時、庶民の間に広まっていた人形信仰の二つがあいまって、端午の節句は庶民の間でも盛んに行われるようになり、定着していきました。
鎧や兜を飾ることの意味は?
武将にとっての鎧や兜は、自分の身を護るための大切な道具でした。
このことから、命を守る象徴と考えられ、男の子を事故や病気、災害などから守ってくれますように。という願いを込めて飾るようになりました。
ただ・・・
当時の庶民が本物の鎧・兜を持っているわけも無く、飾られていたものは、張子などの作り物でした。
宮中では、素木製の檜兜が飾られました。
身分の高低を問わず、外見を真似た作り物を飾ったのです。
これは、鎧・兜を武具としてではなく、精神的な象徴としていたという現れでもあります。
五月人形のモデルはこんな人!?
近年では、キャラクターものなども見受けられますが、五月人形といえば、やっぱり「武者人形」ではないでしょうか。
勇ましい男の子に育ちますように。
武者人形には、そんな願いが込められています。
金太郎
金太郎のモデルは、坂田金時(公時)という平安時代に実在した人物だと言われています。
坂田金時は、幼名を「金太郎」といいました。
全身が赤くて太っており、怪力を持った子供だったそうです。
友達は熊・鹿・猿などなど。
いつも鉞を担ぎ、腹掛けをかけ、相撲や乗馬が好きだったと言われています。
源頼朝に見初められ家来になった坂田金時は、四天王といわれる従者の一人となり活躍した武将です。
牛若丸
牛若丸は、源義経の幼名です。
父の死後、7歳で鞍馬寺に預けられ、そこで学問や武芸を磨きました。
その後にある、武蔵坊弁慶との出会いや歴史的な戦いは、有名なお話です。
牛若丸は、武芸の達人として良く知られる人物でもあります。
弁慶
その知恵と怪力で義経を支え、生涯、義経に仕えた武将です。
衣川の戦いにおいて、義経が立てこもったお堂の前に立ち、無数の矢を受けたまま絶命した、俗に「弁慶の立ち往生」と言われるお話しは、記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。
弁慶は、豪傑の代名詞としても用いられています。
鍾馗(しょうき)
鍾馗は、邪悪なものや疫病から守る中国道教系の神といわれていますが、このような話が伝わっています。
宮廷内で悪さをする小鬼を、どこからとも無く現れた大鬼が、難なく退治してしまいました。
玄宗が、大鬼に正体を尋ねると
「自分は終南県出身の鍾馗。
武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したのですが、顔の見た目が恐ろしい事が原因で落第しました。
私は世をはかなんで自殺したのですが、高祖皇帝は、自分を哀れみ、進士の緑袍を授けたうえ手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるために、皇帝の子孫である陛下を、お助けいたしました。」
と、話したそうです。
その後、目が覚めると玄武の病気は治っていました。
この夢に感銘した玄宗皇帝が、当時の著名な画家に鍾馗の絵を描かせると、出来上がった絵は、夢で見た人物とまったく同じでしたので「あなたの元にも現れたのですか?」と画家に問うと、「はい。これからは疫鬼から人々を守ろうとおっしゃっていました。」という答えが返ってきました。
玄宗皇帝は、しばらくその絵を眺めると、国が一望できる城の門の上に、自らその絵を掲げました。
この話が、中国の庶民に広がると、厄除けとして鍾馗の絵図を飾る風習が生まれました。
鍾馗の実在か否かについては、諸説あります。
五月人形には、この他にも徳川家康や上杉謙信のように強くたくましい武将や、桃太郎のように心根の優しい男の子の人形もあります。
男の子の成長を願い祝う端午の節句ですから、こんなふうに育って欲しいなぁ~と思う武者人形があれば、お子様の初節句に選んでみてはいかがでしょうか?
≪参考≫
五月人形の歴史 / 五月人形 鯉のぼりの橋本屋
端午の節句に金太郎を飾る理由 / 真多呂人形のコラム
弁慶とは~武蔵坊弁慶の逸話や最後の地となった衣川の戦いと弁慶の墓など / 戦国武将列伝Ω
鍾馗 / お話を見て書いて作るサイト お話し歳時記
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