8月・・・
お盆の時期も過ぎ、なんとなく秋が見え隠れする頃、もう1つのお盆の行事である「地蔵盆」が行われます。
近畿地方を中心に根付く地蔵盆は、古くから伝わる日本の風習のひとつです。
通常のお盆と比べると地域性が強いものですので、今まで知らなかったという方も多いかもしれません。
地蔵盆とは、どんな行事なのでしょうか。
そして、どんな由来があるのでしょう?
地蔵盆とは?
お地蔵さんと呼び親しまれている、「地蔵菩薩」の縁日(8月24日)を中心にした3日間もしくは、そのうちの2日間に渡って行われる地蔵菩薩の祭りのことをいいます。
地蔵盆は、道祖神信仰と結びついた、路傍や街角(辻)にたたずんでいるお地蔵様が対象です。
古くには、旧暦7月24日前後に行われていた地蔵盆ですが、現在は月遅れの行事として、8月23、24日の2日間に行う地域が多くなっています。
この2日間が平日の場合は、少しずらして土日に行うという地域もあるようです。
また、旧暦の日をそのまま新暦に置き換えた7月23、24日に行う地域もあります。
地蔵盆はこどもが主役!
意外な事かもしれませんが、地蔵盆は子供が中心の行事です。
その理由は、お地蔵様がその地域はもちろんのこと、子供の守り神でもあるからです。
地蔵盆は、そんなお地蔵様を、大人ではなく子供達が供養する行事となっているのですが、どんな行事を行ってお地蔵様を供養するのでしょうか?
地蔵盆で行われる行事は、地域によって違いがありますが、中でも多く行われているものをご紹介いたします。
お地蔵様のお清めやお化粧
地蔵盆が近くなると、お地蔵様を清めてから前掛けを新しいものにして化粧を施します。
化粧って・・・と思うかもしれませんが、お地蔵様の顔を白く塗るのだそうです。
お地蔵様に供えるお花や御供物、提灯なども準備します。(これは大人の仕事)
お地蔵様のお清めは、子供たちだけで行う地域もありますが、町内の方々が協力して行うという所もあるようです。
数珠回し(数珠繰り)
お地蔵さんの前でみんなが車座になり、大きな数珠を僧侶の読経に合わせて回すものです。
数珠回しは、子供達だけでなく、こどもの頃の思い出を胸に大人も参加して一緒に数珠を回します。
お接待
お地蔵様に供えられた御供物を子供たちに配ることを、お接待といいます。
この言葉は神戸地方で使われるもので、地域によってはおさがりと言われています。
ゲームや福引
お地蔵様の前に集まった子供たちは、お菓子を食べながらゲームをしたり、福引でおもちゃを貰ったり、はたまたおしゃべりをしたりして楽しい時間を過ごします。
夜になると、盆踊りをする地域もあるようです。
もしかしたら、子供達にとっての地蔵盆は、お盆の行事というよりは夏休み中の楽しみといった感覚かもしれないなぁ~と感じたりしているところです。
さて、ここからは地蔵盆の由来についてみていきたいと思います。
地蔵盆の由来
地蔵盆の由来にはいくつかの説があり、本来の由来はこれ!という、決まった説がありません。
ただ、子供の成長や幸福を願う地蔵盆の背景には、地蔵菩薩のこんな物語があります。
親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の賽の河原で、両親や兄弟たちを懐かしみ石の塔を築くと、鬼がやってきてそれを壊してしまいます。
それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖の柄に取り付かせ、自分が子供たちの親となって救うことを誓いました。
それ以来、町の辻に地蔵菩薩を建立し、こどもの幸福を祈る民間信仰として近畿地方で広まったといわれています。
この他に、地蔵盆の由来としてよく語られているのが、小野篁のエピソードです。
小野篁は、平安時代前期の公卿であり、歌人としても知られています。
お公卿さまですから、昼はもちろん朝廷に仕えていましたが、夜になると井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたのだそうです。
ある日小野篁が地獄へ降りると、地獄で苦しんでいる死者の代わりに、閻魔大王が地獄の炎で自分の身を焼いて苦しんでいる様子を見てしまいます。
そこで小野篁は、満慶上人とともに閻魔大王を救済するための供養を行ったというものです。
あれ?どうして地蔵菩薩じゃなくて閻魔大王の話なの?と、思ったかもしれません。
当時の日本では、閻魔大王は地蔵菩薩の化身とされ、同一のものと考えられていたのです。
そこから、旧暦7月24日(お地蔵様の縁日)に、地蔵菩薩を供養し祀る日として「地蔵盆」が生まれたというわけです。
※古来日本では、旧暦7月1日からの1ヶ月間がお盆期間とされていました。
それにしても 閻魔大王=地蔵菩薩とは、なんとなく腑に落ちないものがあるのではないでしょうか。
そこには、ちゃんとした理由がありました。
地蔵菩薩と閻魔大王の関係
地蔵菩薩は、お釈迦様が亡くなった後、弥勒菩薩が現れるまでの無仏の間、濁悪の世界からすべての人を救済する事を仏様にゆだねられた菩薩様です。
また、六道に落ちた人間を救済することでも知られています。
※六道とは、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの迷界を指します。
地蔵菩薩は、人々を救おうとする時に様々な姿をとるのですが、その1つが閻魔大王なのです。
「人は亡くなると、よほどの善人や悪人で無い限りは中陰という存在になり、順次十王の裁きを受ける事になる。」という十王信仰と呼ばれるものがあります。
裁きを受けるといわれているのは、初七日から7日ごとに七七(四十九)日までと、百か日、一周忌、三周忌になります。
そして、十王には本地仏といわれる本来の姿があり、本地仏は十王に姿を変えてそれぞれの役割を果たしています。
十王と本地仏は、以下のように対応しています。
- 初七日 泰広王(不動明王) 殺生について取り調べる。
- 二七日 初江王(釈迦如来) 偸盗(盗み)について取り調べる。
- 三七日 宋帝王(文殊菩薩) 邪淫の業について取り調べる。
- 四七日 五官王(普賢菩薩) 妄語(うそ)について取り調べる。
- 五七日 閻魔王(地蔵菩薩) 六道の行き先を決定する。
- 六七日 変成王(弥勒菩薩) 生まれ変わる場所の条件を決定する。
- 七七日 泰山王(薬師如来) 生まれ変わる条件を決定する。
- 百箇日 平等王(観音菩薩)
- 一周年 都市王(勢至菩薩)
- 三周年 五道転輪王(阿弥陀如来)
はい!
ここで、五番目にある五七日に注目してください。
「閻魔王(地蔵菩薩)」とあります。
閻魔王(閻羅王とも言われます)とは、もちろん閻魔大王のことです。
そして、その本地仏が地蔵菩薩となっています。
- 閻魔大王が地蔵菩薩の化身である
- 閻魔大王と地蔵菩薩は同一である
という考え方は、ここから来たものです。
最後に・・・
小野篁のエピソードは、矢田寺(正式には金剛山寺)に伝わるものです。
ただ先に書いたようなよく聞くエピソードと、矢田寺に伝わっているお話には若干の違いがあります。
言い伝わる中で、少し変わってしまったのかもしれません。
ここに、矢田寺に伝わるお話を、要約してご紹介します。
閻魔王の補佐をしていた小野篁は、ある時、「菩薩戒を受けたいが戒師が冥府には居ない。何とかならないか」と、閻魔王から相談を受けます。
そこで、かねてより尊崇している矢田寺の僧、満慶を紹介すると「直ぐにでもこの冥府へお越し願いたい」と命じられました。
この事を満慶に伝えると、満慶は快諾し、小野篁と共に冥府へ赴いて閻魔王に菩薩戒をさずけます。
そのお礼として、閻魔王は満慶が望んだ「地獄を見て回る事」を許すと自ら地獄を案内しました。
満慶は、亡者が苦しむ地獄の様子に身の毛もよだつ思いでしたが、その中で、亡者に変わって地獄の苦しみを自ら受ける地蔵菩薩の姿を見たのです。
地蔵菩薩の姿に感銘を受けた満慶が、礼拝すると共に教えを請い願うと
「苦しみを持つ者・苦しみを恐れる者は我に縁を結びなさい。それには、わが姿を拝みわが名を唱えるとよい、そうすれば必ず救われるであろう」
と、答えられたそうです。
その後、矢田寺に戻った満慶は、地蔵菩薩の教えに従うべく仏師に地蔵菩薩像を彫らせますが、どうしても、その姿を再現することができず、むなしい日々が過ぎていきました。
ある日、4人の翁が突然現れると、三日三晩で、地獄で出会った地蔵菩薩の姿そのままの地蔵菩薩像を完成させてしまいます。
翁たちは、ただ驚いている満慶に対し「我らは仏法守護の神である」と告げると五色の雲に乗って、春日山の方へ飛び去っていきました。
そして、この地蔵菩薩像が矢田寺の本尊となりました。
現在、京都の矢田寺に安置されている「代苦受地蔵」が、この時の地蔵菩薩像です。
小野篁と共に冥府へ赴いた満慶は、当時、奈良の矢田寺の住職であり、京都の矢田寺は、弘仁13(822)年に奈良の矢田寺の別院として建てられたものということを申し添えます。
≪参考≫
矢田寺 / 古寺巡訪
京の夏の風物詩「地蔵盆」 / 京都をつなぐ無形文化遺産 京都市文化市民局文化財保護課
地蔵盆 / 日々是活き生き-暮らし歳時記
冥途通いで見たもの 地蔵菩薩と小野篁 by 五所光一郎 / 京に癒され
コメント