一年を通じて、どこかしらでお祭りが行われている古都「京都」
たくさんあるお祭りの中でも、最古の祭りといわれるのが「葵祭」です。
その葵祭と並んで、京都三大祭の1つに数えられるお祭りに「祇園祭」があります。
うっとうしい梅雨が明け、夏の気配が顔を出し始めた頃、祇園祭が始まります。
7月1日~31日までの1ヶ月という、とても長い期間を使って行われる「祇園祭」には、どんな由来や歴史があるのでしょう。
祇園祭の由来
遡ること平安時代、869(貞観11)年のこと・・・
京の町では疫病が大流行し、大勢の死者が出る悲惨な状況でした。
疫病が大流行したのは「御霊の怒りに触れたから」、という御霊信仰があった時代です。
御霊の怒りを鎮めるために、当時の国の数にちなんだ66本の鉾を神泉苑に立て祇園の神を祀り、洛中の男児が祇園社(現:八坂神社)の神輿を神泉苑に奉納し、そこで疫病退散のための御霊会を行いました。
この行事は後に「祇園御霊会」と呼ばれ、現在の「祇園祭」へと受け継がれています。
人が怨念を抱いて死ぬと、その魂は「怨霊」となり、災害や疫病を引き起こして祟ると恐れられていました。
それらの怨霊を「御霊」(神や守護霊)として祀り鎮めることで、さまざまな厄災から免れ、平穏と繁盛を実現しようとする信仰のことを言います。
祇園祭の歴史
祇園祭のはじまりは、先にも書いたとおり、869(貞観11)年に行われた御霊会です。
その時から現在までの1100余年。
祇園祭が歩んできた歴史を見ていきましょう。
行事から町衆のお祭りへ
御霊会は、疫病が流行った時に行われていた行事で、その中のひとつが、祇園祭の前身である祇園御霊会です。
祇園御霊会も、当初は疫病が流行った時にだけ行われていたのですが、970(天禄元)年を境に、毎年行われるようになります。
すると、時の流れと共に、町衆が積極的に関わるようになり、次第にお祭りとしての要素が加えられていったのです。
また、祇園御霊会(を含むすべての御霊会)の目的が「怨霊」の慰撫だったこともあり、早い時期から相撲や歌舞伎などの催しが行われていました。
※慰撫=慰めいたわること。
この催しが京の町衆の楽しみの1つとなり、祇園祭が町衆のお祭りとしての色彩を強くする要因ともなりました。
やがて、南北朝時代(1336~92年)になると、鉾は華麗になり、祇園御霊会の規模も大きくなっていきました。
現在のような、「山鉾巡行」が始まったのもこの頃です。
御霊の怒りを静めるための行事だった祇園御霊会は、その要素を失うことがないまま、山鉾巡業を中心とする町衆のお祭りとして確立され現在の祇園祭へと続いていきます。
町衆に支えられた祇園祭 中断と復興の歴史
古くから現在まで続いているお祭りは、幾度かの中断を余儀なくされ、何度も復興を繰り返して現代まで受け継がれています。
祇園祭も類に漏れず、幾度も中断と復興を繰り返しています。
お祭りの中断というと「戦争」を思い浮かべがちですが、平安の世から伝わる祇園祭はそれだけではありません。
なんといっても、戦乱の世を潜り抜けていますから、その歴史も古くから積み上げられています。
確認できる中で、一番古い一時中断は、「平治の乱」(1159(平治元)年)によるものです。
この頃は、一時中断が幾度かあったのかもしれません。
復興したのは、室町(足利)時代(1336~1537年)といわれています。
ただ・・・
室町時代に起きた「応仁の乱」による中断があるため、この復興は、1467(応仁元)年以前だったということができます。
応仁の乱は、10年間という長きに渡って続きました。
その間、祇園祭は三度の中止を余儀なくされます。
さらに、この乱によって京の町は焼け野原と化したため、次の復興までに、33年の歳月を要しました。
応仁の乱終結から33年、町衆の力により祇園祭が復興されたのは1500(明応9)年です。
この頃から江戸時代にかけて、町衆の祇園祭への熱が高まると共に、山鉾は豪華絢爛になっていき、神事や行事も、現在に近い内容に作り上げられていきます。
一向一揆(1533(天文2)年)の際には、室町幕府が神事停止を命じますが、町衆が黙ってはいませんでした。
「神事無之共、山鉾渡し度し」(神事これなきとも、山鉾わたしたし)と、抵抗して山鉾を動かしたほどでした。
※神事無之共、山鉾渡し度し=神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい
「山鉾巡行」が町衆のお祭りとして歩み始めたのは、この頃からなのかもしれません。
しばらくは平穏な時が流れたのですが、江戸時代になると、三度の大火に見舞われ、多くの山鉾を焼失することになります。
「京都の三大大火」と呼ばれることのある
- 宝永の大火(1708(宝永5)年)
- 天明の大火(1788(天明8)年)
- 元治の大火(1864(元治元)年)
です。
天明の大火の後は、復興までに長い歳月を費やした山鉾や復興できない山鉾もありました。
その後、やっと復興した山鉾を襲ったのが元治の大火です。
禁門(蛤御門)の変で起こったこの大火は、京の町がみるみるうちにどんどん焼け広がったことから「どんどん焼け」ともいわれています。
この大火では、さらに多くの山鉾を焼失しました。
中には今でも復興していない山鉾があるほどです。
時は過ぎ、第二次世界大戦のさなか。日本中で、お祭りというお祭りが自粛されていた時代です。
祇園祭は、1942(昭和18)年に宵山の点燈を中止、翌1943(昭和19)年から1946(昭和21)年まで4年間の中断がありました。
戦後初めて山鉾を立てたのは、1947(昭和22)年。
立った山鉾は2基、巡行したのは1基だけでした。
小さな復活ではありましたが、当時の人達は、どれだけ嬉しかったことか!
きっと戦争で荒んだ気持ちに、希望の光が差し込んだのではないでしょうか。
その後、祇園祭は年々規模が大きくなり、観光客も増え続け、現在へと続きます。
ちなみに、山鉾の数なのですが・・・
応仁の乱の前には、58基の山鉾があったそうです。
その後、復興したのが36基。
※27基という情報が多くありますが、ここでは祇園山鉾連合会の情報を受けて36基と記載します。
どんどん焼けで多大な被害を受けたあと、徐々に復興した山鉾は、現在では34基となりました。
※2022(令和4)年に、鷹山鉾が再興され巡行に加わったため、33基から1基増えて34基となっています。
≪参考≫
祇園祭 概要 / 八坂神社
祇園祭歴史 / 京都観光・旅行
祇園祭 歴史と文化 / 祇園祭を遊ぶ DigiStyle京都
祇園祭 / 京都ガイドブック
祇園祭について / 祇園祭 京都市観光協会
祇園祭山鉾連合会について / 祇園祭 公益財団法人祇園祭山鉾連合会
コメント
記事の方、拝見させていただきました。
私は今、大学で祇園祭の再興についてのレジメをつくっているのですが、どうしてもこのウェブに書いているようなところの参考文献は何かあるのでしょうか?
あれば、是非教えていただけないでしょうか。お願いします。
しょうさん
初めまして。
コメントをいただき、ありがとうございます。
調べ方等々は、別途ご連絡させていただきますね^ ^
元々は、京都の中京区と下京区のお祭でした。 先の祭りの巡行は、私の子供の頃は、四条通りを東へ巡行し、寺町を右折して、万寿寺通りで河原町に合流、そして五条通りを右折してお終いでした。 いつの間にか京都全体のお祭になり、四条河原町を左折して御池通りまで北行と言うパターンになって、50年は立っていると思います。
洲見さん
こんばんは。
貴重な情報をありがとうございます。
戦後~現在までの内容を、一文で済ませてしまっているので
とてもありがたいコメントです。
私も、もう少し深く調べてみたいと思いました。
感謝です。