突然ですが「日本の三大○○」の○○に入る文字は?と聞かれたら、あなたは何を思い浮かべますか?
桜?祭?それとも、夜景でしょうか?
はたまた、名城や花火かもしれません。
と・・・日本には、様々な三大○○が存在します。
ところで、その「三大○○」の1つ!「三大奇祭」はご存じでしょうか?
「祭」とありますから、3つのお祭りということは察しが付くと思います。
どんなお祭りか?というと、文字通り「奇祭」です(笑)
????? ですよね^ ^;
「独特の風習をもった、風変りなお祭り」
奇祭とは、こんな定義にあてはまる祭りを言います。
では、日本三大奇祭に名を連ねている祭りは何かというと・・・
困りました(汗;
なぜなのか?は解りませんが、日本三大奇祭はコレ!とはっきりしたものがありません。
ネットで「日本三大奇祭」を検索すると、「島田の帯祭」「西大寺はだか祭り」「吉田の火祭り」「秋田のなまはげ」「諏訪大社(長野県)の御柱祭」など、様々なお祭りが名乗りを上げています。
ただ、どれをとっても、その土地に根付いている独特なお祭りばかりです。
今回、日本三大奇祭と呼ばれるお祭りの中から「吉田の火祭り」をピックアップしました。
「吉田の火祭り」とは、どんなお祭りなのでしょうか?
その歴史や由来も、詳しくまとめました。
吉田の火祭りとは?
吉田の火祭りは、北口本宮浅間神社と諏訪神社の両社による、秋の例大祭です。
正式には「鎮火大祭」といい、毎年8月26日、27日の2日間に渡って行われます。
日をまたぐお祭りにしては珍しいのですが、1日ずつ、それぞれ別のお祭りが繰り広げられます。
- 8月26日:富士山の噴火を鎮めるための「鎮火祭」
- 8月27日:富士山の山仕舞いのお祭り「富士山神輿」
という具合です。
※行事内容等の詳細は、別途お祭り情報の記事でお届けしています。
また「吉田の火祭り」と呼ばれていることで、「鎮火祭」が本祭りだと思われがちですが違っています。
「鎮火祭」は宵宮にあたるもので、「富士山神輿」が本祭りとなることを、ここに申し添えます。
吉田の火祭りの由来と歴史
さて、吉田の火祭りは、400年以上も続くといわれる、歴史あるお祭りです。
ここからは、その由来や歴史を見ていきましょう。
吉田の火祭りの由来
吉田の火祭りの由来については、木花開耶姫の伝説が多く語られていますが、それだけではありません。
上吉田「時宗西念寺」に伝わるもの
その昔、西念寺の僧が信濃の諏訪へ修行に行って帰る時に、木の枝を折って竜神を作りました。
その竜神を諏訪神社に祀ったあとに、杖の頭に入れて燃やしたのが火祭りの始まりという説。
古事記の記載によるもの
建御名方神が、国譲りの力比べに負けて諏訪湖に追い込まれた時のこと・・・。
※建御名方神:神道説での諏訪大社の祭神
無数の松明を燃やしたところ、追手は多数の援兵がいると思って退散したので命が救われたことが火祭りの起源になったという説。
浅間神社に関連するもの
これが、現在多く語られており、古事記にも記述のある、木花開耶姫の火中出産説です。
※木花開耶姫は、浅間神社の祭神です。
天照大神が日本の国を治めさせるために、孫にあたる瓊瓊杵命を、降臨させました。
ある日、瓊瓊杵命は海岸で木花開耶姫に出会います。
その美しさに、たちどころに恋におちた瓊瓊杵命は、木花開耶姫に結婚を申し込みました。
ところが木花開耶姫は、自分の一存では決められないからと、父親である大山祇命に話をするように頼みます。
瓊瓊杵命が大山祇命に求婚の話をすると、たいそう喜んで、木花開耶姫と長女の石長姫を一緒に嫁がせましたが、瓊瓊杵命は石長姫を気に召さなかったため送り返してしまいます。
その後、瓊瓊杵命と木花開耶姫は一夜を共にして夫婦の契りを結ぶと、木花開耶姫はめでたく妊娠します。
ただそのことを瓊瓊杵命に報告すると、瓊瓊杵命は一夜限りで身ごもった事に不信を抱き、国津神の子ではないのか?と、木花開耶姫を責め立てました。
※国津神:古くから日本にいた土着の神
これに対し木花開耶姫は、「もし、身ごもった子が国津神の子であれば、生まれる時に良くない事が起こり、瓊瓊杵命の子であれば、無事に生むことが出来るでしょう。」ということを言い残しすと、隙間をすべて壁土でふさいだ無戸室に入り出産の準備をします。
やがて産気づくと、木花開耶姫は、無戸室に火を放ち燃え盛る炎の中で三人の子を無事に生み落として身の潔白を証明しました。
以上、3つの説の他に「白蛇様のお下り」という言い伝えも残っています。
吉田の火祭りでは、神社を経った神輿が上吉田の上宿から下宿へと下っていきます。
この時、神輿と共に白い蛇神や竜が、上吉田の街を上から下へと下っていくというものです。
そのため、御師家では、祭り当日の朝に、敷地内を流れている川沿いの草刈りや川の清掃をし、蛇神様の通りを迎えるのだそうです。
※御師:寺社に所属し、参拝者の案内や世話をしたりする人のこと。
御師の家:富士山の御師は、自宅を宿坊として提供していました。その宿坊の事をいいます。
吉田の火祭りの歴史
このように、吉田の火祭りには様々な由来があり、はっきりとした起源は、定かではありません。
現在、祭りが行われていた事を知ることが出来る最古の資料は「吉田之新宿帳」(1572(元亀3)年)になります。
これは、上吉田の上宿から中宿の当時の様子を記録している、とても重要な史料とされているものです。
この「吉田之新宿帳」の中に、神輿が通る道である「御幸道」の記載がある事から、当時、すでに神輿渡御が行われていたと考えられています。
また、現在は8月26、27日に行われている吉田の火祭りですが、過去の文献を紐解くと、元々は別の日に行われていたことが解ります。
まず「鎮火祭(火祭り)」については、
- 「富士山紀行」:1780(安永9)年7月21日
- 「富士日記」:1790(寛政2)年7月21、22日
- 「甲斐国志」(1814(文化11)年):7月22日
- 「菊田日記」:1804(享和4)年~1834(天保5)年は7月21、22日
- 「富士道場日記」(1853(嘉永6)年):7月21、22日
という具合で、7月21、22日(旧暦)が、祭りの日でした。
山仕舞いの祭である「富士山神輿」については、
「当山は例年六月朔日をもつて山びらきといひ、七月廿七日をもつて山仕舞いといふ」
という「富士山道しるべ」(1860(万延元)年)の記載が、山仕舞いの日を確認できる最古の文献とされています。
1872(明治5)年には、暦の改正がありましたが、明治時代をとおして
- 火祭りは旧暦7月21日
- 山仕舞いは旧暦7月26日
に、行われていました。
ただ、旧暦で祭事を行うと、斎行日が毎年変わってしまいます。
この事から、明治時代末頃になると、新暦の日に移行し固定する動きが始まりました。
現在の日程に定まるまでの経緯は、
- 1910(明治43)年:
旧暦7月21日の月遅れとして 新暦8月21、22日に行われた - 1912(大正元)年:
社司氏総代の会議で、火祭りを9月9、10日としたが一致せず - 1913(大正2)年:
火祭りを8月30、31日、山仕舞いを9月10日とした - 1914(大正3)年:
8月30、31日は市町村等の計算日にあたり、参詣者が少なくなるということで、祭りを旧暦7月21日に戻した。
しかし、その直後の会議において、火祭りを8月26、27日とし現在の日程に固定された。
と、なっています。
話は変わりますが、吉田の火祭りが「奇祭」と呼ばれるようになったのは、大正末年の頃からだそうです。
当時、吉田の火祭りのように町中の広い範囲にわたって火を焚く祭りは、珍しいものでした。
日が暮れると辺りは闇が当たり前の時代に、町中が炎に包まれ明るく照らされる祭は、まさに奇祭だったのでしょう。
吉田の火祭りは、2012(平成24)年3月8日、国の重要無形文化財に指定されています。
さて、今年の吉田の火祭りは・・・
と、続けたいところではありますが、長くなりました。
お祭り会場へのアクセスや、お祭りに関する情報は記事を改めていますので、よかったらご覧になってください。
≪参考≫
木花咲耶姫について / 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
冨士浅間神社と諏訪神社の両社の秋祭り / 地域密着型流山本町八木道洋品店的ブログ
歴史解説 / 日本三大奇祭 吉田の火祭り
諏訪神社と吉田の火祭り / 峡陽文庫
《写真提供》
(一財)ふじよしだ観光振興サービス
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