突然ですが・・・
「7月の行事といえば何?」
という質問を受けたとしたら、あなたは何を思い浮かべますか?
たぶん・・・
七夕!!と答える方が多いのではないかと思います。
7月7日は、七夕の日です。
七夕の節句として、五節句の1つにも数えられており、日本に古くから伝わる風習です。
子供の頃は、願いを書いた短冊を笹に飾って、叶いますように!ってお祈りしていたはずなのに、大人になったらさっぱり(汗;という方も少なくはないでしょう。
それでも、カレンダーを見て、今日は七夕だなぁ~と、思うことはあるのではないでしょうか。
さて、本題です!
七夕
は、幼い頃から慣れ親しんでいる風習ですが、その由来はご存知ですか?
なんとなく・・・というあなたも、おぼろげな記憶をスッキリさせてしまいましょう^ ^
それでは、どうぞ☆
七夕の由来
七夕は、ひな祭りや端午の節句と同じように、日本古来の風習と、中国から伝わった風習がひとつになり、日本独自の風習として根付いたものです。
七夕伝説とも呼ばれている織姫と彦星の物語も、中国から伝わってきたものです。
えっ?
という声が聞こえてきそうですが、そうなんです。
それでは、七夕の基礎となった日本古来の風習とはどのようなものだったのか?を、最初にみていきましょう。
棚機津女(たなばたつめ)の伝説
古来日本での七夕は、お盆を迎える前の禊ぎの日であり、棚機津女という行事が行われていました。
これは旧暦7月6日~7日に行われていた行事で、町や村から選ばれた乙女が、この時期に訪れる神様を祀るために、水辺の機屋に篭るというものです。
そして、その選ばれた乙女を棚機津女と呼びました。
棚機津女は、神様が訪れる7月6日の夜に、水辺の機屋で神様にささげる布を織り棚に置きます。
神様が帰った翌7日の夕方、棚機津女が機屋から出てきた時に、笹竹やお供え物を海や川に流して罪やけがれを祓う「七夕送り」という禊ぎを行ったといわれています。
当時は水辺で禊ぎを行うことで、災難とのかかわりを断ってくれると信じられていました。
なんだか、流し雛の風習と似ているように感じます。
そもそも、棚機津女とは・・・
水辺にある棚造りの小屋に篭り、神にささげる機を織りながら神の訪れを待ち、やがて、神に奉仕し、神の妻となる巫女のことです。
後に、著名な巫女が女神として信仰される流れがうまれると、棚機津女も神として祀られるようになりました。
織姫と彦星の物語
七夕にまつわるこの物語は、誰もが一度は聞いたことがあるのでないでしょうか。
天の川を挟んで輝く、こと座のベガ(織女星)織姫とわし座のアルタイル(牽牛星)彦星が、年に一度だけ逢うことを許された七夕の夜・・・。
天を支配している天の神様には、織姫といい、はたを織って神様たちの着物を作る仕事をする、とても働き者の娘がいました。
年頃の娘なのに、化粧ひとつせず、毎日はた織に精を出している娘を不憫に思った天帝は、天の川の西に住んでいる牽牛という働き者の牛使いの青年と織姫を引き合わせます。
すると、二人はたちまち惹かれあい、結婚することになりました。
二人は、とても仲のいい夫婦でしたが、遊んでばかりいて仕事をしなくなり、天の神様が注意をしても、返事ばかりで、全く言うことを聞きませんでした。
織姫が機織をしなくなったので、機械にはほこりがたまり、天の神様の服はボロボロに、牽牛の畑は草だらけで作物は枯れ、飼っていた牛はやせ細り、病気になってしまいました。
二人を見るに見かねた天帝は怒り、「もう二人を合わせるわけにはいかない」と、天の川の東と西に引き離します。
それからというもの、織姫は、毎日毎日泣き暮らしていました。
牽牛も家に閉じこもってしまい、牛の病気はひどくなる一方でした。
困った天の神様は、「お前たちが、以前と同じように 毎日まじめに働くのなら、年に一度だけ会うことを許そう」と、二人に伝えました。
するとその言葉を聴いた二人は、年に一度、会うことのできる日を楽しみにして、仕事に精を出しました。
年に一度会うことを許された7月7日の夜、織姫は天の川を渡って彦星に会いに行きます。
ただ、雨が降ると川の水かさが増すので、織姫は川を渡ることができなくなってしまいます。
でも、そんな時は、どこからともなくカササギの群れが飛んできて、広げた翼を連ねて橋をかけ、織姫と牽牛を会わせてくれるのでした。
この物語は、旧暦7月7日に、織女星(織姫)と牽牛星(彦星)が、天の川を挟んで最も光り輝いて見えることから、この日を年に一度のめぐり合いの日と考えた中国で生まれて、日本に伝わってきたものです。
そうそう!
現代日本では、織姫と彦星は恋人だと勘違いしている人が、ひじょーに増えているようです。
ここまで、読み進めてくれたあなたは大丈夫ですね^ ^
乞巧奠(きこうでん・きっこうでん)
奈良時代、織姫と彦星の物語と一緒に伝わってきたのが、乞巧奠という中国の風習です。
織姫が機織に秀でていたことから、その織姫にあやかって機織や裁縫が上達するようにと、7月7日の夜、祭壇に針や糸などを供えて星に願いを掛けました。
これが乞巧奠の行事です。
時と共に、機織や裁縫だけでなく、書道や芸事などの上達も祈るようになったそうです。
乞巧奠が日本に伝わった奈良時代には、孝謙天皇という女性天皇が、芸能や技巧の上達を願って乞巧奠を行ったと言われています。
その後、宮中の女性達が「7月7日の夜にお供え物をして、織物や裁縫がうまくなるように祈る」という、女性の祭りとなりました。
暫く経つと、そこに、織姫と彦星伝説にちなんで、男女の良縁を祈るという意味が加わります。
さらに平安時代になると、宮殿では清涼殿の前に祭壇が設けられ、二星(織姫と彦星)会合を祝い、香をたいて楽を奏で詩歌を楽しむ宴が催されました。
この頃になると、行事というよりは、祭りとしての要素が濃くなります。
室町時代には「織女祭」といわれ、宮中行事の一つになりました。
七夕の行事が、庶民の間に広まったのは江戸時代のことです。
乞巧奠、本来の姿は見受けられなくなりましたが、お供えや願い事の風習は浸透し、現在の七夕祭りへと受け継がれてきています。
ふーん・・・
じゃぁさぁ~笹竹に短冊を飾るっていうのも昔からあったわけ?
なんて思ってはいませんか?
その辺りについては、記事を改めてお届けしていますので、良かったらご覧ください。
≪参考≫
七夕伝説と水辺の女たち/ なぜ世界の人々は「日本の心」に癒されるのか 呉善花著
乞巧奠(きこうでん) / こよみのページ
七夕特集 / 京都地主神社
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