秋には、収穫の秋!という言葉があるだけに、お米を始めとした様々な食物が収穫の時期を迎えます。
古くには、収穫を終えた後、秋の収穫を祝う収穫祭が各地で執り行われていました。
当時行われていた収穫祭の中には、「○○祭」と呼び名が変わったりお祭り色が濃くなったりと、時代と共に変化したものもありますが、収穫祭を起源とする行事は、今でも日本各地にたくさん残っています。
今回取り上げている「亥の子」も、そんな行事のひとつです。
ところで、食物の収穫祭なのに「亥の子」(亥=猪)と呼ばれているのは、不思議だと思いませんか?
加えて、亥の子は主に関西地方に伝わる行事ですので、関東以北にお住まいの方にはあまり馴染みのない行事かもしれません。
そこで、亥の子について様々な角度から調べたことを、解りやすくまとめてみました。
亥の子とは?
亥の子は、亥の月(旧暦10月)の亥の日亥の刻に行われる行事で、2つの側面をもっています。
1つは秋の収穫祭で、もう1つは子孫繁栄・無病息災を祈る祭事です。
旧暦において、亥の月には3つの亥の日(上亥・中亥・下亥)がありましたが、最初の亥の日を指して亥の子という場合もあります。
また地域によって、亥の子の祭、亥の子の祝い、亥猪などと、呼び方にも違いがあります。
亥の子の由来は?
亥の子の起源は、古代中国において行われていた「亥子祝」という行事が、日本に伝わって定着したものという説が多く語られています。
※亥子祝:亥の月亥の日亥の刻に、ダイズ、アズキ、ササゲ、ゴマ、クリ、カキ、糖の7種を混ぜた七色の餅を食べると無病息災で過ごすことができるというもの
他に「景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、椿の槌で地面を打ったことに由来する」という説もあり、実のところ確たる起源は定かではありません。
古くから行われ現在まで伝わっている行事は、中国から伝わった行事が宮廷行事となり、武家や庶民の間に広まって定着したというものがほとんどですが、亥の子の行事も同様の流れを持つものです。
平安時代の宮廷では、亥の月最初の亥の日亥の刻に亥の子の形をした餅(亥の子餅)を献上する儀式がありました。
また、公家社会においての亥(猪)は、たくさん子供産むところから産育の神様とされており、旧暦10月望の日(15日)に亥の子餅をついて祝う風習があったそうです。
さらに当時の庶民の生活を考えると、この頃は秋の収穫が終わり収穫祭が行われる時期にあたります。
宮廷から伝わった亥の子の行事が、元々行われていた秋の収穫祭と融合し、現在に至っているという事はお察しいただけるかと思います。
亥の子ではどんな行事が行われるの?
亥の子にはどんな行事があるのかな?と調べたところ、主に2つの行事がある事が解りました。
キーワードは、「亥の子餅」と「亥の子つき」です。
さっそく、1つずつみていきましょう。
亥の子の行事 亥の子餅とは?
最初に、亥の子餅そのものについてお話ししたいと思います。
少し前に小さな文字で書いていますが、中国から伝わってきた亥の子餅は七色の餅でした。
それが、室町時代になると、白・赤・黄・胡麻・栗の五色の餅となり、形も猪を模したものに変わっていきます。
五色の餅は、小豆の入った赤色の餅となり、後に牡丹餅へと変化しました。
今では、お餅で餡を包み猪に似せた形の亥の子餅が多く見受けられますが、お餅を餡で包んだ牡丹餅タイプの亥の子餅も確かに存在しています。
秋の収穫祭について
むかぁ~しむかぁ~しの話になりますが、稲の刈込が終わると、春に山から下りてきて稲作の無事を護ってくれた田の神が山へ帰ると信じられていました。
そのため秋の収穫祭には、稲の豊作を祝うだけでなく、田の神に感謝するとともに山へ送り出すという意味もあります。
亥の子と収穫祭の融合
秋の収穫祭と亥の子の時期が、ちょうど同じ頃だったからなのでしょうか。
農村において、亥の子の神もまた田の神として信じられていました。
そこで、亥の子の日には新穀でついた亥の子餅を供え、田の神(亥の子の神)に感謝すると共にその年の収穫を祝ったのです。
また、亥の子餅は、農作業でお世話になった家庭に配る風習もありました。
さらに、亥の刻(21:00~23:00頃)に家族全員で亥の子餅を食べることで、子孫繁栄・無病息災を祈りました。
亥の子の行事 亥の子つきとは?
亥の子つきは、子供が中心となって行われる行事です。
簡単に説明すると、子供たちが亥の子唄を歌いながら、亥の子石で地面をついたり、亥の子槌で地面を叩いたりして歩きながら地域の家々を訪問し、お菓子や餅・お小遣いなどを貰って歩くものです。
本当にざっくりした説明で申し訳がないのですが、この行事は地域によって違いがあるので、一概にこういう行事ですと言い切ることができません。
地面をついたり叩いたりと書いたのもそのためですし、子供達が歌う亥の子唄も地域によって様々です。
※動画では、亥の子石を使っています。
亥の子石は、漬物石くらいの大きさの石に、数本の縄(参加する子供の数だけという地域もあります)を括り付けたもので、縄を引っ張ったり緩めたりすることで地面をついていきます。
亥の子槌は、新しい藁を棒状に束ね、片方に持ち手をつけたものです。
こちらは、手に持って地面をたたいて歩きます。
亥の子石を使う地域も亥の子槌を使う地域も、行事そのものに大きな変わりはありません。
違いと言えば、亥の子石を使う地域では「亥の子宿」という亥の子の神を祀った集会場がある事です。
亥の子唄に関しては、本当に様々な歌詞があって、元々はこうだったとか、こういう唄が多く歌われているということをお伝えするのが難しい状況です。
そこで、こちらのブログをご紹介いたします!
⇒ 「いのこ(亥の子)調査隊」
亥の子が行われている地域の方々が、それぞれの亥の子唄の歌詞をコメントとして書いてくれているので、ご興味あればご覧になってみてください。
亥の子つきに意味はあるの?
ところで、亥の子つきの行事で地面を突いたり叩いたりするのはなぜだと思いますか?
この行為については、
- 収穫が終わった土地を鎮め固める儀礼
- 地面をたたくことで土地に潜っている精霊に活を入れ、来年の生産力強めるという呪術
- 悪霊を地下に鎮圧して生産増強の発動を促す呪術
という説がありましたが、確たるところは定かではありません。
それでも、これまで見て来た亥の子の性質を考えると真ん中の説が有力かな?と、個人的には思います。
亥の子の日に残る風習
亥の子について調べていると、その行事そのものとは別に、亥の子の日に行われている(行われていた)「こたつ開き」や「炉開き」という風習がある事が解りました。
寒い季節になって、暖房器具に初めて火を入れるのが亥の子の日とされていたのだそうです。
こたつ開きがあった頃のこたつとは?
今のこたつは電気を使って暖かくするものなので、「こたつに火を入れる」と聞いたところでピンとこないのは当然のことです。
そこで、こたつ開きが行われていた頃のこたつ事情を見てみましょう。
遡ること江戸時代・・・。
当時のこたつは掘り炬燵が主流で、置き方のこたつがでてきたのは江戸時代中期と言われています。
掘り炬燵は、床を掘り下げて作った炉の上にやぐらを乗せたもので、置炬燵は、櫓の中に火鉢を置いたり、行火を吊り下げるものでした。
固定している掘り炬燵に比べ、場所を移動することができる置炬燵は重宝されていたようです。
ここで気になるのが当時の燃料なのですが、掘り炬燵はもちろんのこと、火鉢もしかり、行火においても、木炭や炭団でした。
豆炭を用いるようになったのは、もっと後の事です。
炉開きとは?
炉開きの「炉」は、「囲炉裏」のことです。
こたつ同様、囲炉裏に火を入れて使い始めることを炉開きと言いました。
囲炉裏もまた、現代住宅では見ることが少なくなりましたが、暖を取るだけでなく、食べ物を煮炊きしたり、棚を組んで衣類や食糧を乾燥させたりと様々な用途で用いられていました。
また、囲炉裏から出る煙や煤で木材を燻すことで、防虫・防水効果が生まれ家屋を保つ効果があったと言われています。
あれ?なにかおかしいですか???
炉開きを調べると茶道の風習としての説明が多く書かれているからでしょうか。
確かに、炉開きという言葉そのものは茶道から来ていますが、茶道界だけで行われているものではなかったということです。
茶道での炉開き
茶道では、お茶を点てる時に必要なお湯を沸かすために、季節に応じて「風炉(ふろ・ふうろ)」と「炉」を使い分けています。
画像は、向かって左側が風炉で、右側が炉でお湯を沸かしているものになります。
茶道での炉開きとは、風炉の使用をやめて炉を使い始めることを言い、炉開きの日には口切の茶事が行われます。
この日は「茶人の正月」と言われるほどで、茶道界においてとても重要な日です。
※口切の茶事とは?
口切の茶事を一言で説明するなら、その年の新茶を初めて味わう正式なお茶会です。
新茶は、茶葉のまま陶器の壷に入れて保存されているのですが、その壷の封を切り茶臼でひいてお茶を点てます。
また「口切」は、「茶壷の口の封を切る」という言葉が略されたものということです。
余談ですが、口切の茶事で振舞われるお菓子に「亥の子餅」が用いられます。
亥の子の日に初めて火入れをしたのはなぜ?
話は変わりますが、なぜ?こたつや炉に初めて火を入れるのが亥の子の日になったのでしょうか。
たぶん、元々中国にあった風習が伝わってきたものだからなのかもしれません。
この事には、陰陽五行説が絡んでいます。
「亥」という漢字を見ると、どうしても干支を思い浮かべるかもしれませんが、陰陽説では「陰」五行説では「水」の気を持っています。
「陰の気」は猛々しさの無い穏やかな力で、「水の気」には火を剋する力があることから、「亥」は火を穏やかに抑えて制御する力があると考えらていました。
だからこそ、この日に暖房器具に火を入れると火事の心配がないと、信じられていたのです。
亥の月亥の日が選ばれたのは、きっと亥が重なるためその力がより大きくなるという考えがあったのでしょう。
また、旧暦では「亥・子・丑」の月が冬の季節とされていました。
冬が始まる「亥の月」に暖房器具を使い始めたというのは、理屈が合うと言えば合う話かと思います。
※こぼれ話
「江戸時代は暖房器具を使い始める日が決まっていた!」
炬燵開きが盛んに行われていた、江戸時代のこと。
暖房器具を利用し始める日は、亥の月亥の日からと決まっていました。
しかも!武家では一の亥の日に使い始め、町人は二の亥の日からとキッパリ分かれていたのです。
個人の感覚で自由に暖房を利用できる現代では考えられない事ですし、恵まれている環境だと感じます。
2024年 亥の子の日はいつ?
ここまで、亥の子の行事についてお届けしてきましたが、やっぱり気になるのは今年の亥の子の日ではないでしょうか?
旧暦でみると、今年(2023年)最初の亥の月亥の日は、新暦11月13日(月)です。
ただ現在では、新暦11月最初の亥の日を亥の子の日としている事が多くあり、今年は11月7日(木)となっています。
また最初に少し触れていますが、亥の月亥の日は一日だけではありません。
解りやすいので酉の市を例にあげますが、一の酉(最初の酉の日に行われます)だけでなく、二の酉(二番目の酉の日)があり、三の酉(三番目の酉の日)まである年もあります。
亥の日も同様で、その歳によって違いはあるものの、多い年には3回巡ってきます。
亥の子が盛んに行われていた時代には、全ての亥の日に亥の子を行う地域もあったということです。
参考までに、2024年11月に訪れる亥の日は2回あって、上記の他に11月19日(火)となっています。
ここで新暦と旧暦の話になりますが、新暦が採用された後の亥の子の行事を月遅れで行うところもあります。
※月遅れ:旧暦より1ヶ月遅れた新暦のこと。
そうなると、旧暦10月最初の亥の日を1ヶ月ずらした日が亥の子の日になりますから、今年は12月19日(木)です。
なんだか紛らわしくなってすみませんm(_ _)m
そうそう!亥の子餅を食べるといいと言われている亥の刻は、22:00を中心とした約2時間となっているので、おおよそ21:00~23:00と覚えておくといいでしょう。
最後に・・・
西日本に多く残っている亥の子は、東日本に多く見受けられる十日夜と同じ性質を持つと言われています。
十日夜はお月見の行事としても知られていますが、お月見の根底にあるのは収穫祭です。
また、十五夜、十三夜、十日夜とあるお月見の中でも、十日夜はより収穫祭の色が濃いと言われており、その日も旧暦10月10日と亥の子の日にとても近いものがあります。
東と西と行事の違いはあれど、その年の収穫に感謝し翌年の収穫を祈るという気持ちは同じだったんだろうなぁと、古い時代を思っているところです。
《参考》
えひめ、その食とくらし(平成15年度) / データベース『えひめの記憶』愛媛県生涯学習センター
亥の子 / 下松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ
今日は十日夜で亥の子の日 / こよみのページ
亥の子突き。 / お話歳時記
亥の子まつり / まんが日本昔話~データベース~
スポット暖房が主流だった江戸時代 / 弘前藩よろず生活図鑑Web版
江戸の暮らしと二十四節気 / 土屋ふゆ著
日本の伝統行事・行事食 / 谷田貝公昭監修 坂本廣子著
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