夏の訪れを告げるお祭りに、「ほおずき市」があります。
ほおずき市といえば浅草!と思うかもしれませんが、元来「下町の夏の風物詩」ですから、浅草以外の場所でも開かれています。
ということで、浅草以外の開催地を・・・
と、話を進めたいところではありますが、それより先に、ほおずき市の由来について少しお話したいと思います。
どうぞ、お付き合いください。
ほおずき市の由来と歴史
ほおずき市は、観音信仰と深い関連があります。
古くから、観音様とご縁がある日(縁日)は毎月18日とされ、縁日に参拝すると大きな高徳があると受け継がれてきました。
文献をたどると「今昔物語集」や「古今著聞集」に、縁日の記載が見られることから、平安時代にはすでにあったものとされています。
そして室町時代以降になると、「欲日(功徳日)」という縁日が新たに加えられました。
この日に参拝すると、1回で百日分、または千日分などの参拝に相当するご利益(功徳)がある特別な日とされてきました。
年間の功徳日は、以下のとおりです。
功徳日一覧表 | |||
1月1日 | 100日 | 7月10日 | 46000日 |
2月晦日 | 90日 | 8月24日 | 4000日 |
3月4日 | 100日 | 9月20日 | 300日 |
4月18日 | 100日 | 10月19日 | 400日 |
5月18日 | 100日 | 11月7日 | 6000日 |
6月18日 | 400日 | 12月19日 | 4000日 |
中でも、7月10日の大功徳日は「四万六千日」と呼ばれ、1日のお参りで46,000日分のご利益があるとされました。
※7月10日の功徳日について
7月10日の功徳日は、そのご利益が千日分と最も多く、千日詣でと呼ばれていましたが、浅草寺では、享保年間(1716年~11736年)頃より、「四万六千日」と呼ぶようになり、そのご利益も四万六千日分に相当すると言われるようになったものです。
(四万六千より)
江戸時代頃になると、この日の参拝が盛んになっていきます。
すると、7月10日に1番乗りで参拝したいという人々が、前日の9日から訪れるようになりました。
そのため、7月9日、10日の両日が四万六千日の縁日とみなされるようになりました。
なお、寺院によっては、大功徳日を「九万九千日」とか「四万八千日」と呼ぶところがありますが、この日数の由来は定かではありません。
その時期も、7月10日、8月9日または10日、旧暦の7月10日とまちまちです。
ほおずき市の始まりは?
さて、人が多く集まる縁日には、決まって市が立つようになります。
ほおずき市も、そのような市の中の1つです。
元々は、愛宕神社(東京都港区)の千日詣りの縁日において、薬草としてほおずきを売っていたのが始まりです。
当時は、ほおずきを煎じて飲むと、
- 子供のかんの虫
- 大人の癪(原因が分からない疼痛を伴う内臓疾患)
によく効くと言われていて、愛宕神社の千日詣りのお土産として持ち帰るのが通例でした。
浅草寺にほおずき市が立つようになったのはなぜ?
それにしても、なぜ浅草に市が立つようになったのでしょう。
その秘密は、愛宕神社でほおずき市の立つ日にありました。
愛宕神社では、四万六千日の縁日に市が立っていたため、四万六千日であれば浅草寺が本元ということで、浅草寺にも市が立つようになったという説が一般的です。
ただ、ほおずき市について調べていたら、ある言い伝えを見つけました。
「源頼朝が奥州討伐の帰りに浅草で軍勢を休ませ、日射病で倒れた兵士達に、ほおずきの赤い実を食べさせたところ元気を取り戻した事からほおずき市が立つようになった。」というものです。
源頼朝は、浅草寺において戦勝祈願をしたり土地を寄進したりと手厚く庇護していましたし、父親の源義朝も観音像を寄贈しており、浅草寺と源の家の間には深いゆかりがあることを申し添えます。
最後に・・・
ほおずき市は、決して華やかな祭りではありません。
ただ、それだけに風情があって、日本らしいお祭りということが出来るのではないでしょうか・・・。
なお浅草寺以外でのほおずき市は、こちらでご案内しています。
≪参考≫
縁日 / コトバンク
四万六千日・ほおずき市 / 浅草念珠堂
浅草寺の歴史 / あさくさかんのん浅草寺
浅草にきたら浅草寺 / 京都きものレンタルwargo
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