夏本番を迎える8月・・・
東北では、短い夏を惜しむように各地において、様々な夏祭りが開催されます。
中でも、青森の「ねぶた祭り」は、日本屈指の大きな祭りです!
大きな張子を乗せた山車(ねぶた)と、大勢の踊り子(ハネト)が跳ねる様子は、テレビでも良く取り上げられるので、ご存知の方も多いかと思います。
この祭り独特の「らっせーらー、らっせーらー」という、掛け声も印象的です。
ところで、どうしてこのような掛け声になったのか、掛け声の持つ意味を、知りたくはありませんか?
では、早速・・・と行きたいところではありますが、いい機会なのでねぶた祭りの歴史から始めたいと思います。
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ねぶた祭りの歴史
ねぶた祭りが、初めて記録に登場するのは享保年間(1716~1736年)のことです。
一番最初のねぶた祭りは、弘前のねぷた祭りを真似て行われたもので、その様子は「灯篭を持ち歩き踊った」という記録が残っているそうです。
ねぶたも担いで移動させる「担ぎねぶた」で、京都祇園祭の山車に近いものだったと言われています。
きっと、今よりずっと小さくて派手さの無いお祭りだったのではないでしょうか。
ねぶた祭りに踊りが付いていたという記録があるのは、安永年間(1772~1781)になります。
このことからも、なんとなく当時のねぶた祭りを想像することができますね。
江戸時代~明治初期
江戸時代後期になると、人形のねぶたや、大型の担ぎねぶたが作られるようになります。
祭りもより華やかで、盛大なものになっていきました。
この頃は担ぎねぶたが主流で、1869(明治2)年には、担ぎ手が100人という巨大なねぶたもあったそうです。
明治時代
さて、1873(明治6)年になると、ねぶた祭りは突然禁止されてしまいます。
初代青森県令(今の県知事)が、ねぶた祭りの禁止令を発布したためです。
当時の知事は、中央から派遣されていたということもあったのでしょう。
その理由は、ねぶた祭りは昔ながらの野蛮な風習で大勢集まって喧嘩をする、というものでした。
この時期から、一旦巨大化したねぶたが、小さくなっていきます。
この禁止令は1881(明治14)年まで続き、翌1882(明治15)年に解禁されたのですが、実際は禁止令が布かれていた間も、多くのねぶたが運行していたそうです。
ねぶたが小さくなったのは、きっと禁止令下での運行を知られまいとしての事だったのでしょう。
ところが、禁止令が解かれたあとも、ねぶたの縮小化は続きます。
なぜかというと、電気の普及と共に電線が張り巡らされたためです。
時代の流れと言えばそれまでかもしれませんが、ねぶたは担いでも電線にひっかからない大きさに変化していきました。
昭和~
時は流れ、昭和の時代へと移ります。
全世界が不況の波にのまれた1929(昭和4)年、経済的に苦しい中であっても、ねぶた祭りは続けられましたが、やはり戦時中には、自粛を余儀なくされます。
日華事変の起こった1937(昭和12)年から第二次世界大戦が終結した1945(昭和20)年までの9年間、ねぶた祭りは中止されていました。
そして、1946(昭和21)年、戦後の復興もままならない中、ねぶた祭りが復活します。
1947(昭和22)年には「戦災復興祭り」、1948(昭和23)年以降は「青森港祭り」という名称で開催されました。
現在の「青森ねぶた祭り」という名称になったのは、1958(昭和33)年のことです。
また、戦後のねぶたは再び巨大化していきます。
現在のように、横に大きくなったのは、運行に広い道路が使われるようになったからと言われています。
祭り自体も、年々華やかになり、次第に観光化していきました。
現在では、期間中の人出が300万人を超える国内有数の祭へと成長しています。
ちなみに、ねぶた祭りは、1980(昭和55)年に、国の重要無形文化財に指定されています。
らっせーらーの意味は?
変わりますが、ねぶた祭りには、
らっせーらー! らっせーらー!
らっせ らっせ らっせーらー!!
という独特の掛け声があります。
きっと、一度聞いたら忘れることが出来ないのではないかな?と思います。
掛け声をかけながら、はねるハネト(踊り子)につられて、見ている側も掛け声をかけるほど、勢いのある掛け声です。
さて、言葉だけ取れば意味不明の掛け声ですが、調べてみると、こんな意味がありました。
広く伝わっているのは、「出せ出せ」が語源となっているという説です。
まだ、ねぶたがろうそくの灯でともされていた頃のこと・・・
ねぶたを灯すろうそくを集めるために、子供達が各家を回っては「出せ出せ、ろうそく出せ、出さねばかっちゃくぞ」と、それぞれの門戸で囃し立てたのだそうです。
また、ねぶたが各家や辻を流していた頃には「出せ出せ、いっぺぇだせ」という掛け声で、お振る舞いや寄付金をねだっていました。
これらの「出せ」が「らせ」になり、「あー」という掛け声がついて「らっせ、あー、らっせ」に変化、その後「らっせーらー、らっせーらー」になったと言われています。
もう1つ、別の説もご紹介しましょう。
「らっせ」は「拉っせ」もしくは「羅っせ」で、「殺すな、捕らえろ、連れて行け」という意味を持っているというものです。
この説は、蝦夷討伐に由来しています。
本州東部(現在の関東地方の一部と東北地方)と北方(北海道)に住んでいて、大和朝廷などの中央集権に従わなかった人々を、異端もしくは異属視した呼び方です。
また、蝦夷は「えぞ」とも読まれますが、こちらは北海道・樺太・千島の先住民であるアイヌ民族を指す言葉です。
朝廷が蝦夷討伐を職として任じたのが、征夷大将軍です。
中でも、坂上田村麻呂は有名どころだと思います。
蝦夷討伐というと、どうしても惨忍なイメージを持ってしまいがちですが、坂上田村麻呂は、戦って征伐するよりも蝦夷の生活に安定をもたらす事を第一に考えていました。
そんな彼ですから、任務についた征夷大将軍の中で、蝦夷討伐で捕らえた捕虜を一番多く他の地域に移住させています。
こうすることで、多くの人々が、処刑されずに済みました。
移住させた人々を、心配して訪ね歩いたという話も残っています。
だからこそ、らっせは「殺すな、捕らえろ、連れて行け」という意味を持ったというのがこの説です。
もし、ねぶたが武家社会のような殺伐とした時代に始まっていたとしたら、らっせは「殺せ」など、もっと攻撃的な意味を持っただろうと言われています。
ねぶたの由来を調べていると、坂上田村麻呂は、蝦夷討伐でたくさんの蝦夷を殺害したと多く書かれています。
でも、それが事実であったとしたら、らっせの意味は、きっと違うものになっていたのではないでしょうか。
≪参考≫
ねぶたの変遷 / 日本の火祭り 青森ねぶた
青森ねぶた祭りの歴史 / 青森タイムトラベル第2回 青森市
青森ねぶた祭 / JAPAN WEB MAGAZINE
青森県史の質問箱02 ネブタ特集 / 青森県庁
高取町出身である最初の「征夷大将軍」坂上田村麻呂の活躍
ラッセラー、ラッセラー / ねぶた由来記
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