【お詫び】当ブログ内において、2024年へ対応してない記事(ツアー系を除く)が複数ある事が解りました、ご不便をおかけした皆様へ申し訳なく思い、この場にてお詫びいたします。
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神田祭の歴史とは?誰よりも詳しい情報を大公開!

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春が訪れると、この時を待ってました!とばかりに、日本各地において、それぞれのお祭りが行われます。

それは、東京だって同じ事!あちらこちらで、お祭り繰り広げられます。

中でも大きなお祭りと言えば、やはり江戸三大祭ではないでしょうか。

お神輿-min

江戸三大祭りとは、日枝神社の山王祭、神田神社の神田祭、そして富岡八幡宮の深川八幡祭りもしくは、浅草神社の三社祭になります。
※3つ目をどちらにするかは、意見が分かれるところのようです。

どれを取っても歴史ある大きなお祭りですが、今回は日本三大祭りのひとつに数えられている、神田神社の神田祭を取り上げて、その歴史を見ていきたいと思います。

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神田祭の歴史

神田祭は、2015(平成27)年に還座400年を迎えた神田神社の祭礼です。

神社同様、その祭りも歴史あるものではありますが、起源は定かではありません。

神田神社御社殿-min

神田神社は、730(天平2)に創建され、祭の始まりも同時期と考えられています。

当時の神田神社は現在の千代田区大手町(将門塚周辺)にあり、その土地(当時の柴崎村)の鎮守ちんじゅでした。
※鎮守:鎮守神または、その神様を祀った神社のこと

古い文献(落穂集)の記述によると、毎年9月に祭礼が行われており、その祭礼は秋の収穫祭に近いものだったようです。


時は過ぎ、1600(慶弔5)年のこと。

徳川家康が、会津討伐そして、関ケ原の戦いへ臨む際に、神田神社において戦勝の祈祷を行いました。

ご存じの方も多いとは思いますが、関ケ原の戦いは1600(慶長5)年9月15日の開戦後、わずか半日で徳川軍が勝利を挙げた戦いです。

加えて徳川家康が天下統一を成し遂げたこの日は、神田神社の祭礼日(神田祭の日)でもありました。

こういったことが重なったため、徳川家康は神田祭縁起のいい祭礼として、以後絶やすことの無いようにと命じたのです。

その後、神田祭は江戸城内に神輿が入ることの出来る江戸幕府公認の祭となり、天下祭と呼ばれるようになります。

それから現在に至るまで、様々な困難を乗り越えつつ受け継がれ、今もなお、華やかな祭りが繰り広げられています。

詳しくは、後述いたします。


神田神社の場所ですが、江戸城築城の際(1603(慶弔8)年)に、徳川家康によって、神田山(現在の駿河台鈴木町)に移されます。

1616(元和2)年には、徳川秀忠が現在地へ移し江戸総鎮守としたことで、幕府だけではなく、庶民からも深い信仰をうけるようになりました。

さて、神田祭は時代の移り変わりとともにその形も変わってきました。

ここからは、祭りの移り変わりを、歴史の流れと共に追っていきたいと思います。

江戸時代以前

古い時代の祭礼は、船渡御のかたちで、毎年行われていました。

このことは、1892(明治25)年発刊の「神田神社由緒畧記」から解ります。
※畧:現代表記では「略」

本書には、

「9月の祭禮古い昔ハ船祭なり元和年中より陸路のみの渡御となり
 延寶の頃までハ毎年なりしを天和年間より隔年となれり」

と書かれています。

原文をご覧になりたい方は、こちらへどうぞ^ ^
 ⇒「神田神社由緒畧記」
※国立国会図書館で保存公開している本書をご覧いただくことが出来ます。

江戸時代

祭礼が、船渡御から陸路のみの渡御に変わったのは、1616(元和2)のことです。

当時は、現在のような神輿渡御ではなく、山車行列が中心となっていました。

山車行列-min

36本(37本前後ともいわれます)もの華麗な山車が行列をなし、しずしずと江戸の町を巡行したのです。

神社の神輿は、山車の間に挟まれて巡行していました。

1681

(天和元)より、毎年行われていた祭礼が2年に1度に変わりました。

本祭り山王祭と交互に行われるという形は、この時から現在まで受け継がれています。
ただし、1869(明治2)年~1872(明治5)年は毎年行われていました。

そして1755(宝暦5)になると、江戸時代の神田祭で最も人気のあった附け祭つけまつりが行列に加わります。

附け祭-min

※附け祭とは?
その時に流行したもの(歌舞伎や浄瑠璃などの文化芸能)を、踊屋台や曳き物(巨大な張りぼての人形)、仮装行列で表現したもの。
毎回違う出し物が出されたため、見物客を大いに楽しませたという事です。

この頃の神田祭は、かなり盛大なものになっていました。

明治時代

時は流れ明治時代になると、山車の数が次第に減少していきます。

1872(明治2)年には35本だったものが、1880(明治13)年には14本となっています。

そんな中、1884(明治17)年には46本、1887(明治20)年には40本と、江戸時代に負けない盛大な祭礼が行われた年もありました。

が・・・

近代化の波は、神田祭にも変化をもたらします。

1875(明治5)年には、錦蓋翳4本・五色旗などの装飾が加えられ、1879(明治9)年になると馬車が導入されます。

また、山車は、1889(明治22)年を境に各氏子町内に備え付けられるのみとなっていきました。

大きな原因は、あちらこちらに張り巡らされた電線にあります。

電柱の高さは5~6mですが、山車は7~8m程あったため、運行する事が困難になってしまったというわけです。

そういった事情もあり、祭礼は山車行列から神輿のみの渡御へと移り変わっていきます。

神輿が細い路地までも巡行するようになると、祭礼の日程は2日間になり、3日間、4日間と次第に増えていきました。

1892(明治25)年、神田祭の斎行は、現在と同じ5月に変更されます。

それまで斎行されていた9月は、

  • 台風の時期であること や
  • 疫病の流行しやすい時期であること から

そういった影響を受けにくい5月に変更されたということです。
※神田祭は、1884(明治17)年の台風(将門台風)の際に中止されています。
 1890(明治23)年~1891(明治24)年に起きたコレラの大流行も、ひとつのきっかけになったようです。

この頃になると、どことなく「戦争」が気になるところですが、明治時代では、1904(明治37)年の祭礼が、日露戦争の影響で延期になっています。

大正時代~昭和(戦前)

大正時代になると、山車は姿を消し、祭の名称も神輿渡御祭と変更されます。

神輿渡御祭は、氏子町内を神輿がくまなく渡御する祭でした。

もちろん1日では回り切れませんから、数日に渡って行われていました。

長い時だと、1週間もかけていたそうです。

各氏子町会が、競い合うようにして神輿を作ったのもこの時期になります。

そして1923(大正12)年9月、日本の災害史に名を遺す、関東大震災が起こります。

これによって、神田神社の社殿神輿、保存されていた山車ほとんどが焼失してしまいました。

その後の神田祭は延期されていましたが、1926(昭和元)年に鳳輦ほうれんが新調され復活します。
※鳳輦は、神田神社の神輿です。

1934(昭和9)年には、二の宮御輿復活もありました。

よっしゃ、これからだ!!という頃だったかもしれません。
(筆者の勝手な想像です)

1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発すると、神田祭は1942(昭和17)年を最後に、終戦を迎えるまでの間は中止されています。

戦前最後といわれる、1942(昭和17)年の神田祭では、鳳輦を牛が曳く形が取られました。

昭和(戦後)~平成

終戦を迎えた後、初めて神田祭が行われたのは1952(昭和27)年になります。

神田神社宮入-min

この時は、一の宮鳳輦が復活し、3日間に渡る神輿渡御祭が行われました。

氏子町会神輿の連合宮入が、初めて斎行された記念すべき祭でもあります。

また1954(昭和29)年には、神輿渡御祭から神幸祭へと名称が変更されました。

日本が高度経済成長期に入り、自動車が普及してくると、神幸祭の日程日数も変わっていきます。

日程は5月中旬から5月2・3日へ、日数も1968(昭和43)年より2日間とされ、1977(昭和52)年より1日間となりました。

この頃から、神輿山車も徐々に復活していきます。

  • 1975(昭和50)年:二の宮御輿が行列に加わる
  • 1986(昭和58)年:獅子頭山車が復活
  • 1987(昭和62)年:三の宮御輿が新調され、行列に加わる
  • 1990(平成2)年:諌鼓山車が復活

という具合です。
※二の宮御輿は、1973(昭和48)年に三越より奉納されましたが、翌1974(昭和49)年の神田祭が中止になり、1975(昭和50)年に行われたためこの年が初渡御となりました。

さらに、2001(平成13)年には、江戸時代に人気を博した附け祭復活!

これに伴って、江戸時代に人気のあった曳き物復元されていきます。
※2005(平成17)年に「大鯰と要石」が約250年振りに復元、2007(平成19)年には「酒呑童子」を題材とした「大江山凱陣」が約170年振りに復元されています。

2003(平成15)年の江戸開幕四百年記念大祭では、船渡御復活しました。

翌2004(平成16)年以降は、陰祭かげまつりの年であっても、毎回、大御輿の渡御が行われるようになっています。

※陰祭:神幸祭と神輿宮入が行われない年(山王祭が行われる年)の祭を陰祭と呼んでいます。

不況や災害、さらには戦争をも乗り越えて、今もなお壮大な時代絵巻が繰り広げられる神田祭。

古き良きものを復元してきただけでなく、時代と共に、形を変え、新しい文化を受け入れてきた祭ということができるのではないでしょうか。


さて、2015(平成27)には、神田神社還座400年を記念して、これまで以上に盛大な神田祭が行われました。

附け祭では、浦島太郎の曳き物が新たに復元されたり、天下祭の流れを組む三熊野神社の祭り山車が特別参加で華を添えました。

大行列となった附け祭には、サンバチームが参加していたり、氏子町のボーイスカウトや消防少年団、交通少年団を含む子供たちも大勢参加!

江戸っ子「みこしー」も、祭りデビューを飾りました。
※江戸っ子「みこしー」は、神田神社還座400年を記念して作られた神田明神のマスコットキャラクターです。

さらに、祭りの様子をインターネットで生中継したり、ラブライブとのコラボグッズを販売!!

これほど時代とうまく向き合っている祭は、そうそう無いように感じます。

最後に・・・

祭りの話からは遠ざかりますが、神田明神さんって本当に面白いっていうかなんていうか・・・

フェイスブックに公式ページがあると思えば、Twitterでもつぶやいてるし、神田祭の様子はYoutubeでリアル配信でしょ。

LINEだって公式アカウントがあって、神田明神キャラクターのLINEスタンプも販売されています!
(スタンプ!結構可愛いです^ ^)

ホームページTOPの最下部に、それぞれのリンクがあります。よかったら、ご覧になってみてください。
 ⇒ 「江戸総鎮守 神田明神」

ただただ古いものを守るだけでなく、新しいものを臨機応変に取り入れる、そんな一面があるからこそ、神田明神さんは幅広い人々に親しまれ、長く栄えているのだと思います。

きっと・・・

≪参考≫
「神田神社・神田祭の歴史」 / 大好き神田 千代田区神田公園地区連合町会
神田「よ組」町火消と灯台の話 / 神田資料室 KANDAアーカイブ
神田祭 / まち日本橋 三井不動産
神田祭(淡路町二丁目編) / 相模国神社祭礼
≪協力≫
神田神社広報:歴史上不明な点において、神社当局の方よりご協力いただきました。

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