灯りをつけましょぼんぼりにぃ~
お花をあげましょ桃の花ぁ~♪
3月3日は、ひな祭りです。
桃の節句とも呼ばれている、いわずと知れた、女の子のお祭りです☆
お雛様って、飾る時はお手伝いも楽しいけれど、いざ仕舞うとなると子供ながらに面倒で、母親に窘められながら手伝った。
女性であれば、そんな懐かしい思い出をお持ちはないでしょうか。
子供の頃は、ただただ楽しみだったひな祭り!
そこには、どんな由来や歴史があるのかはご存知ですか?
ひな祭りの由来と歴史
ひな祭りは、日本の五節句のひとつである「上巳(じょうみ・じょうし)の節句」にあたります。
五節句とは、1年に5回ある季節の節目の日をいい、その季節の収穫物などをお供えして、これまでの感謝とこれからの五穀豊穣を願った日でもあります。
雛人形を飾り、桃の花や白酒を供えて祝うひな祭りは、上巳の節句の行事である「巳の日祓い」と人形を使った「ひいな遊び」が、長い時間をかけて一つになったものになります。
ひな祭り!その起源は中国にあり
ひな祭りの起源は、古代中国の「上巳節」にまでさかのぼります。
上巳は、3月上旬の巳の日という意味です。
中国では、上巳節の日に川の水で身を清め不浄を祓う風習があります。
この風習は、秦の時代(西暦300年頃)から始まったとされており、後に催されるようになる曲水の宴へと続いていきます。
曲水の宴は、水辺で杯を流し、杯が流れ着く順に詩を詠んでいくもので、もし杯が自分の前を通り過ぎるまでに詩を詠むことができなければ、罰として杯に入ったお酒を飲むという風流な宴です。
これは水の精霊に対してのお祭りの1つで、悪しき物を水に流して祓うという事が宴に変化していったものと考えられています。
曲水の宴が遣唐使によって日本に伝えられると、古くから日本にあった禊や形代という身代わり信仰が上巳節と融合し、上巳の節供として日本独自の文化に発展していきます。
巳の日祓いとは?
平安時代の貴族が、3月最初の巳の日に陰陽師をよんでお祓いをした後、人形を川または海に流し無病息災を祈った行事を言います。
※人形=紙を人の形に切ったもの
あの源氏物語(須磨の巻)にも、ある巳の日に光源氏が須磨の海辺に出て陰陽師にお祓いをさせ、紙を切って作った人形に体中を撫でて病気やけがれを移してから、船に載せて他界に流したというお話があります。
また、中国には次のような話が残っています。
昔、漢の時代に徐肇という男がいました。
その男は、3人の女児を儲けたにも関わらず、3人とも3日以内に死んでしまいました。
男の嘆き悲しむ様子を見た同じ村の人たちが、酒を持ち、3人の女児の亡骸を清めて水葬したというものです。
この話が巳の日祓いの起源になった、という説もあります。
庶民の間で行われていた行事
実は、当時の庶民の間でも、巳の日祓いと同じような行事が行われていました。
農耕民族の日本において3月(弥生の月)は田植えが始まる大切な季節でしたから、農耕を見守る神様をお迎えし祀ることを行っていました。
その際に、農耕作に害となるものを祓うだけではなく身の穢れも流し浄める事が大切にされていたため、人間の身代わりの人形を作り、それで身体を撫でることによって人形に穢れを移し、その人形を流していたのです。
どうでしょう?
まるで巳の日祓いだと思いませんか?!
こういった風習は、時の流れを経て「流し雛」の行事として定着していきました。
ひいな遊び(雛遊・ひなあそび)とは?
さて、現在の雛祭りを形作ったものには、「巳の日祓い」ともう1つ「ひいな遊び」がありました。
ひいな遊びは、平安時代の貴族子女の間で盛んに行われていた男女対の紙人形を使ったおままごとです。
もともと貴族の大人を対象とした遊びが、子供達の間に広がったものになります。
また、「雛」には、大きなものを小さくするまたは、小さくてかわいらしいものという意味があり、「ひいな」は「ひな」の古語です。
雛人形の誕生!
巳の日祓いの人形とひいな遊びの紙人形とが結びつくと、人の厄を受ける男女対の紙立雛が生れました。
雛人形の誕生です!
江戸時代前期までは、この紙立雛が主流でした。
その後、人形作りの技術の進化と共に立派な雛人形へと変化し、それに伴って流すものから飾るものへと移っていったのです。
前後しますが、室町時代には、豪華な男女一対の人形を贈答するという風習がおこりました。
人形を3月3日の夜は枕元に置いておき、その翌日にお寺や神社でお祓いをして雛収めを済ませ、翌年の3月にまた取り出すという習慣が生まれ定着したのはこの頃です。
ひいな遊びからひな祭りへ
京都で生まれたひいな遊びは、時の流れとともに、江戸へと伝わります。
江戸の町で、ひいな遊びが庶民の間に広がり3月3日に定期的に行われるようになったのは、だいたい寛永末期(1640年)頃といわれています。
その後、しばらくは「ひいな遊び」と呼ばれていましたが、いつからか「ひな祭り」と呼ばれるようになりました。
いつから変わったのか?はっきりした年代は解かってはいませんが、享保(1716年)以前といわれています。
やがて、江戸幕府が上巳の節句を五節句のひとつとし、女の子の節句として定めると、雛人形は華やかさを増していきました。
今では普通になっている段飾りも、その形態で飾られるようになったのは江戸時代の中期からですので、ひな人形の歴史からすれば比較的新しいものという事が出来ます。
≪参考≫
上巳の節句 / 日本文化いろは事典
雛祭り起源考 / ひな祭り文化普及協會
六条院四季の移ろい / 風俗博物館
ひな祭りの歴史 / 和菓子ミュージアム 甘春堂
上巳(じょうし):3月3日 桃の節句 / 日々是活き生き-暮らし歳時記
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