じりじりと肌を指すような太陽も身を潜め、少し冷たいけれど気持ちのいい風が吹く秋。
読書の秋、食欲の秋、芸術の秋など様々な呼ばれ方をしますが、春に負けない行楽シーズンでもあります。
仮に、春の行楽がお花見だとすれば、秋は紅葉狩りといったところでしょうか。
秋になって赤や黄色に色づいた山は、遠目で見ても美しいものですが、近くで見ると違うんですよねぇ~!
ところで、桜の花を見るのはお花見なのに、どうして紅葉を見るのは紅葉狩りなのでしょう?
また、紅葉狩りはいつ頃から続いている風習なのかをご存じですか?
紅葉狩りの歴史!紅葉狩りはいつ頃から続いているものなの?
実のところ、紅葉を愛でることはいつから行われていたのかは、確たるものがありません。
ただ遠い昔から、色づいた紅葉を眺めては何かしら思いを馳せるような事があったのではないかな?と、個人的には思います。
万葉の時代 紅葉はすでに人を魅了していた?
紅葉狩りという言葉が出てこないまでも、万葉集には紅葉を詠んだ歌がたくさんあることから、この時代にはすでに紅葉を秋の風物詩として楽しんでいたのだろうといわれています。
万葉集の成立は759年以降と推測されていますから、1200年以上も前から紅葉は人の心をつかんでいたという事ができます。
紅葉狩りの由来は平安時代の貴族の風習に?!
平安時代、貴族の間では、紅葉を見ながら宴を開きその美しさを和歌を詠んで競い合う「紅葉合」という遊びが行われていました。
この紅葉合が、今の紅葉狩りの始まりだといわれています。
当時は紅葉を庭木として植える習慣が一般的では無かったので、紅葉を見るためには山まで足を運ばなくてはいけませんでした。
江戸時代には庶民の風習へ!
紅葉狩りは、室町時代から徐々に庶民の間に普及していき、江戸時代中期には大人気の行楽となります。
その背景にあるのは、お伊勢参りなどの旅行が大流行していたことが挙げられています。
お伊勢り本来の目的は伊勢神宮に参拝することなのは言わずとですが、次第にその道中を楽しむようになると、お伊勢参りは旅に出かける口実となったのです。
ところで、今も旅を楽しむためには、ガイドブックが必需品かと思います。
江戸時代にも旅の案内本が出版されていて、その中で紅葉の名所を紹介したものだから、どっと人が押し寄せたというわけです。
この頃の紅葉狩りは、お弁当やお酒を持ち込んで紅葉の木の下でどんちゃん騒ぎ!だったと言われていますが、お茶にお団子で俳句を詠むなどして風情を楽しむものだったという説もありました。
いずれ、お花見と同じような楽しみ方をしていたのではないでしょうか。
また、明治時代になると紅葉狩りを目的とした旅行をする人が多くなったそうです。
紅葉狩り!紅葉を見るのに「狩る」なのはなぜ?
生まれてこの方、紅葉を見に行くことを紅葉狩りと言うことが当たり前になっていました。
でも、よくよく考えると「紅葉を狩る」のではなく「紅葉を見る」行為を指す言葉になわけで・・・
どうして「狩」が使われたのだろう?と不思議に思い調べたところ、3つの説が見つかりました。
- 平安貴族の間で行われていた「紅葉合」が基となった説
- 鬼女紅葉伝説に基づくという説
- 狩りをしない貴族が紅葉を鑑賞した方法説
です。
それでは、1つずつ内容を見ていきましょう。
平安貴族の間で行われていた「紅葉合」が基となった説
ご存じの通り、狩りは元々獣を狩る意味で用いられる言葉です。
平安時代にも、鹿狩りや猪狩りといった狩りは行われていました。
当然ですが、狩りをするには山に入らなくてはいけません。
そして紅葉合もまた、山に出かけなくてはできない遊びでした。
そこで紅葉合の「山に出掛ける行為」を鹿狩りなどになぞらえて、「狩」を使うようになったというものです。
鬼女紅葉伝説に基づくという説
紅葉伝説は、長野県戸隠、鬼無里(現、長野県長野市)、別所温泉などに伝わるもので、能や歌舞伎の演目にもなっています。
奥州会津に、子宝に恵まれない夫婦がいました。
ある時「第六天の魔王にすがるといい」と聞いたので、その通りにすると女の子を授かることができました。
呉葉と名付けられた女の子は、とても美しく読み書きや和歌、特に琴の演奏には長けていました。
呉葉が成長すると、一家は京に上ります。
呉葉は紅葉と名前を変え、琴を教えたりしていました。
源経基の奥方が、たまたまその琴の音を耳にたことがきっかけとなり、紅葉は源経基の奥方に使えることとなります。
城にあがった紅葉は、やがて源経基の寵愛を受けるようになり子供を身籠りますが、同じ時期に奥方は病を患っていました。
その病の原因は、紅葉が第六天の魔王に念じていたものだった事が比叡山の僧侶によって明らかにされると、源経基は紅葉家族を信州戸隠に追放したのです。
鬼無里にたどり着いた紅葉は、そこでも琴を教えるなどして暮らしていましたが、いつしか都に戻りたいという願望が強くなり、一夜山の山賊達を妖術で操り悪事を働くようになりました。
やがて、このことが京の天皇の耳に届くと「鬼女紅葉を退治せよ」という勅命が平維茂(鎮守府将軍、信濃守従五上)へ発せられます。
勅命を受けた平維茂は討伐軍を送りますが、第一軍、第二軍とも紅葉の妖術により討ち取るどころか近寄ることすらできませんでした。
しびれを切らした平維茂は自分が討伐する!と策を練りますが、これは神の力にすがるしかないとして別所北向観音に17日間断食の願をかけ降魔の利剣を授かると、その剣を持って紅葉のいる洞窟を襲ったのです。
紅葉は、突然の襲撃に妖術を使おうとしましたが、体が硬くなり術を使うことができませんでした。
平維茂がその剣で紅葉の首をはねると、紅葉は倒れこみ死に至りました。
で、この話のどこが紅葉狩りの「狩る」につながるの?????と、言いたくなるのも解ります。
なんといっても、ここに出てくる紅葉は人の名前ですから!
紅葉狩りの由来といわれる事は、伝説の最後にあります。
平維茂が紅葉の首を取ったということから、紅葉の首を狩ったで紅葉狩りという言葉が生まれたとする説です。
鬼女紅葉伝説をもっと詳しく知りたいという方は、こちらをご覧ください。
⇒「戸隠に伝わる鬼女紅葉伝説」
狩りをしない貴族が紅葉を鑑賞した方法説
平安貴族の中には狩りをしない人達もいて、紅葉の葉を手に取って鑑賞したことから紅葉狩りと言われるようになったという説です。
ぶっちゃけ、これって意味不明じゃないですか?
だって、紅葉の葉を手に取ると言ったら落葉かもしれないし、紅葉の葉を手に取って鑑賞する事は狩りをする貴族も行ったかもしれません。
まず「紅葉の葉を手に取って鑑賞したことから」の理由を調べたところ、キノコ狩りという言葉があるように、紅葉を拾い集めたから狩りになったのでは?という推測や、紅葉を手折って鑑賞したからというものがありました。
「狩る」の意味合いからすると、「紅葉を手折って・・・」が見合うかと思います。
※手折る:花や枝などを、手で折り取ること
そして、紅葉を手に取って鑑賞したのが狩りをしない平安貴族限定になっている理由は調べがつきませんでした。
もし何かご存じの方がいらっしゃったら、ご一報願いますm(_ _)m
最後に・・・
紅葉狩りには行事食があるの?と疑問をお持ちの方へ!
残念ながら、紅葉狩りの行事食はありません。
そこで、柿の葉寿司を紹介したいと思います。
柿の葉寿司は、酢飯を小さく握り甘酢しょうがと寿司タネを乗せて柿の葉でクルリと巻いたものです。
※実際に作る場合は、柿の葉で巻いた後、葉が落ち着くまでしばらく重しを乗せて寝かせてください。
寿司タネは、こぶ締めにした鯛や鯖、生鮭がおすすめです。
柿の葉は、この時期に赤くなったもので作ると季節感がぐんと増します。
紅葉狩りのお供に、いかがでしょうか。
《参考》
コラム 庶民の旅について / ひょうご歴史ステーション
紅葉狩りの起源 / そうだ京都、行こう
戸隠に伝わる鬼女紅葉伝説 / 戸隠の湧水
歳時記おしながき / 平野恵美子著
やんごとなき遊び「紅葉狩り」に行こう! / ピートの不思議なガレージ
コメント