若葉が芽吹き、初夏の装いを見せる京都の町では、平安絵巻を思い起こさせる風流なお祭りが行われます。
それは・・・
長い歴史を持つ祭りが多い京都の地において、最古の祭りとされている「葵祭」です。
京都の都大路を平安朝の優美な古典行列がそぞろ歩く葵祭は、京都三大祭りの1つにも数えられています。
ここでは、葵祭の歴史について要点を抑えギュッとまとめました。
また、この祭りが葵祭という名前になった由来にも触れています。
葵祭 その歴史と起源
「葵祭」という名前で広く親しまれているこのお祭りは、本来「賀茂祭」といい、上賀茂、下賀茂、両神社の祭礼として行われています。
言うまでも無く、賀茂祭(葵祭)の起源はとても古いものです。
上賀茂神社では、「太古、別雷神が、現在の社殿の北北西にある神山に御降臨された時に行った祭り」が、祭祀の始まりとされています。
その当時は、ご神託によって奥山の賢木を取り阿礼に立て、様々な綵色を飾って走馬を行い、葵楓で作った蔓を装って祭りを行ったと言われています。
※賢木:神域に植える常緑樹の総称、または神事に用いる木のこと
時は流れ、欽明天皇の御代である567年、日本国内は風水害に見舞われました。
五穀は実らず、疫病が流行り、国民は困窮していました。
勅命(天皇の命令)によって、当時賀茂の大神の崇敬者であった卜部伊吉若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであると申されました。
その祟りを沈めるために、4月の吉日を選んで、馬に鈴をつけ、人は猪頭を被り、駆け比べをするという盛大なお祭りを開いたのが、賀茂祭(葵祭)の起源とされています。
その後、弘仁10(819)年には、朝廷の律令制度として最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行うという、国家的行事になりました。
賀茂祭(葵祭)が壮麗な儀式として完成されたのは、貞観年中(859~876年)です。
当時、社頭で行われる祭儀は、一般の拝観をほとんど許していなかったことがあり、祭りの当日は、唯御所から社への行装を一目拝観しよう!という人で、街は溢れ返っていました。
盛大かつ重要視されてきた賀茂祭(葵祭)も、室町時代中期頃から次第に衰退し、応仁の乱以降は廃絶にいたります。
※応仁の乱は、ご存知の通り京都が戦場となりました。そのため皇室の財政が悪化し、文亀2(1502)年から祭りの催行がなくなりました。
そして、200余年の時が流れた江戸時代、東山天皇の元禄7(1694)年のこと・・・。
壮麗を極めた当時の盛儀をそのまま復興することは困難であったものの、上賀茂、下賀茂、両神社の熱意と、朝廷・公家の理解、および幕府の協力により再興されます。
再興後は、明治3(1870)年まで継続されました。
明治4(1871)年から明治16(1883)年までの中断を経て、明治17(1884)年に明治天皇の旧儀復興の仰せにより、春日大社の「春日祭」、石清水八幡宮の「石清水祭」と共に、所謂日本三勅祭のひとつとして復興します。
賀茂祭(葵祭)の催行日も、かつては4月吉日(第2の酉の日)とされていましたが、明治維新以降は、新暦の5月15日と改められて現在に至ります。
明治時代の葵祭を記した資料がありましたので、画像をアップしておきます。
※大きな画像や実際の資料を観たいという場合は、こちらへアクセス願います。リンク先は、国立国会図書館です。
大正15(1926)年になると、雅やかな行列はさらに整備されます。
ただ…昭和に入り戦争のある激動の時代を迎えると、行列は中止され、社頭での祭儀だけが行われていました。
戦後暫く経った昭和28(1953)年に、葵祭行列協賛会の後援を得て行列が復活します。
昭和31(1956)年になると、斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列も復興され、往時のような華やかで美しい行列が京都市中を渡り歩くようになり、現在に続いています。
葵祭という名前の由来は?
賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代は元禄7(1694)年の再興以降のことです。
お祭り当日の内裏神殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになったところによっています。
古くは、葵の花を頭に挿して行列した事から、こう呼ばれるようになったという説もあります。
また、徳川家康は、家紋の「三つ葉葵」が上賀茂神社の神文とよく似ているということから、上賀茂神社を崇拝したと言われています。
それ故に、賀茂祭(葵祭)の復興の際には、徳川幕府の多大な援助があったとも言われています。
≪参考≫
葵祭の概要・沿革 / 京都観光Navi
葵祭歴史 / 京都・観光旅行
起源や歴史 / 葵祭 京都新聞
《写真提供》
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