日本には、古くから季節の節目に祝い事をする風習があり、その日は節日と呼ばれていました。
節日は、後に節供と言われるようになり、現在では節句と記載される事が一般的となっています。
ちなみに「節供」本来の意味は、神様に供える食べ物のことです。
さて、昔は様々あった節日ですが、現在まで続いてる節句と名の付く日は5つだけであり、それらを総称して五節句と呼んでいます。
このブログには五節句それぞれの記事がありますが、改めて「五節句」という大きなくくりで、由来や食べ物などをまとめていきたいと思います。
五節句とは?
五節句は、
- 人日の節句(1月7日)
- 上巳の節句(3月3日)
- 端午の節句(5月5日)
- 七夕の節句(7月7日)
- 重陽の節句(9月9日)
の、五つの節句を指して言います。
さて日本に古くからある風習は、中国から伝わった風習が宮中行事(節日)となり、それが庶民の間に広がると、日本に元々あった風習と融合して独自の風習となり定着したというものがほとんどです。
この流れは、五節句に限ったことではありません。
では、どうして5つの節日だけが節句と呼ばれ、現在まで続いているのでしょうか。
5つの節日が五節句とされたのはいつから?
ごめんなさいm(_ _)m
個人的にも、ここが一番知りたいところではあったのですが、事細かな情報を得ることが出来ませんでした。
ただ、室町時代には「五節供の制」が出来ていたということだけは確かです。
それが江戸幕府に引き継がれ、式日としての五節供が確定しました。
※式日:儀式のある日、祝日・祭日、特定の行事や用事を行うことに定めてある日
この時代、庶民の間に何かしらの行事が広まる流れは、
- 宮廷行事が直接接触のあった将軍家(幕府)に伝わる
- 将軍家(幕府)に出入りのあった武家へ伝わる
- 武家の風習をまねて庶民が行う
といったものです。
そんなご時世に、幕府がこの日を式日とすると決めたこと(五節供の式日の制)で、より庶民への広がりが加速し定着したのではないかと思われます。
そして、式日は現在でいう祝祭日にあたるものでしたから、五節供も休日とされていました。
言うまでも無く、旧暦が利用されていた時代です。
その後、新暦を利用するとなった明治改暦直後の明治6年1月6日に発布された太政官により、祝日としての五節供は廃止されました。
当時の文献をご覧になりたい方は、こちらへどうぞ!
⇒「法令全書 明治6年」※国立国会図書館の公開ページへ飛びます。
これにより、5つの節句は休日では無くなりましたが、行事そのものは深く浸透し定着したまま現在に至っています。
五節句の由来と行事食のまとめ
ここからは、五節句それぞれについて、簡単な説明と由来・行事食をお届けいたします。
加えて、さらに詳しい関連記事もご案内させていただいていますので、よろしければお立ち寄りください。
人日の節句とは?
1月7日に七草粥を食べ、1年の豊作と無病息災を願う日です。
人日の節句の由来
平安時代の日本には、正月初めの子の日に若菜を摘む「若菜摘み」という風習があり、摘んだ若菜を羹と呼ばれる汁物にして食べていました。
そこに中国で行われていた、人日の日に「七種菜羹」を食べる風習が伝わると、若菜摘みの風習と融合して定着します。
初めは汁物として食べられていましたが、お粥に変わったのは室町時代とされています。
行事食はなに?
1月7日と言えば?
もう、お解りの方も多いと思います。
春の七草でおなじみの、七草粥が行事食です。
もし、お粥が苦手であれば、昆布だしで焚いたご飯に塩ゆでした七草を細かく刻んで混ぜるだけの菜飯にしてもいいですね^ ^

上巳の節句とは?
女の子の成長を祝い、今後の健康と幸福を願う日です。
現代において、上巳の節句と呼ばれる事は無いに等しい3月3日ですが、桃の節句やひな祭りの日として受け継がれています。
上巳の節句の由来
上巳の節句は、中国から伝わった曲水の宴と日本で行われていた巳の日祓い・ひいな遊びが融合し、長い時間をかけて日本独自の文化となったものです。
曲水の宴は、古代中国の上巳節が起源とされており、悪しきものを水に流して祓うということが宴に変化したものと考えられています。
巳の日払いは、平安時代の貴族が、3月最初の巳の日に陰陽師をよんでお祓いをした後、人形を川または海に流し無病息災を祈った行事を言います。
ここで、お雛様は?と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。
お雛様の原型は、巳の日祓いの人形と平安時代に貴族子女の間で盛んにおこなわれていたひいな遊びの紙人形が結びついて生まれました。

行事食はなに?
上巳の節句と言われると行事食もなかなか出てこないかもしれませんが、ひな祭りと言えばちらし寿司ですね^ ^
それに加えて、白酒やはまぐり、お雛様へのお供えと思われているだろう菱餅やひなあられも行事食となっています。

端午の節句とは?
さすがに、この節供はご存知の方も多い事でしょう。
端午の節句は、男の子の健康と出世を願う日です。
今では、こどもの日として国民の祝日にもなっています。
端午の節句の由来
古い時代の日本には、この時期「五月忌み」といって、田植えを行う前の早乙女が家にこもって心身を清める、物忌みの行事が行われていました。
この行事と、中国から伝わった端午の節句が交わります。
すると、菖蒲やよもぎで屋根を拭いた小屋にこもり、菖蒲酒などで穢れを祓うようになりました。
当時の庶民の間では、女性のための節句だったという事ができます。
また平安時代の宮中では、端午の節会として、厄除けの菖蒲やよもぎを軒に刺したり、邪気を祓う行事が行われていました。
その後、武士が中心となる時代が訪れると、菖蒲が尚武や勝負に通じるという縁起担ぎから、盛んに祝うようになり、五節句の制定をもって、端午の節句は男の子の節句として定着していきました。

行事食はなに?
端午の節句の行事食は、柏餅とちまきです。
柏餅は、餅を包んでいる柏の葉が新しい葉が出るまで古い葉が落ちないことから、子孫繁栄の願いが込められているものです。
ちまきを食べるようになったのは、中国の故事に由来しています。

七夕の節句とは?
7月7日に行われる、星祭りを中心とした行事です。
一言でいえば、七夕祭りの日になります。
余談ですが、七夕の節句の「七夕」は「しちせき」と読みます。
七夕の節句の由来
七夕の由来というと、織姫と彦星の物語が一番に浮かんでくるかと思いますが、この物語と一緒に乞巧奠という行事も中国から伝わりました。
乞巧奠の行事は、7月7日の夜、女の子の機織や裁縫の上達を祈り星に願いをかけるものでした。
古来日本には、旧暦7月6日~7日に行われる「棚機津女」という行事がありました。
棚機津女は、一言でいうとお盆を迎える前に行われる禊祓の行事です。
乞巧奠が伝わると棚機津女と結びついて、織物や才能がうまくなるように祈る女性の行事となりました。
その後、形を変えつつも、願いをかけたりお供え物をする風習は定着し、今もなお続いています。

行事食はなに?
七夕の節句の行事食は、そうめんです。
歴史を遡ると、古くは中国から伝わった索餅という、現代の油条に似たお菓子が行事食となっていました。
索餅は、そうめんの起源ともいわれており、時代の流れの中で変化を遂げ、今のそうめんになったと言われています。
それとは別に、乞巧奠の行事では祭壇に針や糸を供えてたことから、そうめんを糸に見立てて供えたり食べるようになったという説もあります。
重陽の節句とは?
9月9日に、菊花酒をのむなどして邪気を祓い長寿を願う日です。
現代では重要視されていない重陽の節句ですが、古い時代において、ちょうどこの時期に秋の収穫祭が行われており、それに吸収され廃れてしまったと考えられています。
重陽の節句の由来
重陽の節句は、「高み(丘や山)に登り、茱萸をつけて、菊花酒を飲む」という中国の風習が日本に伝わって定着したものです。
行事食はなに?
重陽の節句の行事食は、食用菊・栗ご飯・秋茄子です。
それぞれの主な効果をあげると
- 食用菊:血行を良くする、血栓を予防する効果
- 栗:ビタミンCやB1が豊富で風邪予防や疲労回復に効果あり
- 秋茄子:豊富な栄養素を含み。生体調整機能に優れている
といったところです。
重陽の節句の由来となった中国の故事や行事食の詳しいお話は、こちらをご覧ください。

最後に・・・
日本の風習を調べていると、中国から伝わって・・・という流れになっているものが多いことに驚きます。
とは言え、時の流れを経て日本独自の風習となり、長い間受け継がれている事は確かです。
五節句だけではなく、古くから伝わる風習やお祭りは、今後も廃れない事を祈るばかりです。
《参考》
江戸時代に五節供がいつ公式行事として制度化されたのか知りたい。/ レファレンス共同データベース
明治以降の休日 / 暦Wiki 国立天文台
日本の伝統行事・行事食 / 谷田貝公昭・坂本廣子
現代こよみ読み解き事典 / 岡田芳朗 阿久根末忠 編著
コメント